12月15日放送の『ゴゴスマ~GOGO!Smile!~』(TBS系)で、伊東市長選で落選した田久保真紀前市長が取り上げられた。 そこでの司会・コメンテーター陣の発言が、SNSで「嘲笑に見える」「いじめそのもの」と受け止められ、一部視聴者から不快感が噴出している。
ただ、この話題は単純に「番組が悪い」「田久保氏が悪い」で割り切れない。 田久保氏側には、落選後に取材対応を約束しながら実施しなかった経緯があり、説明の仕方も波紋を広げた。 一方で、公共性が高い政治のニュースであっても、“笑いの演出”が一線を越えると、視聴者が拒否反応を示すことも今回の反応が示している。 本記事では、何が起きたのかを時系列で整理し、「批判」と「嘲笑」の境界がどこにあるのかを考える。
発端:伊東市長選“落選後対応”が再び炎上の火種に
まず、今回『ゴゴスマ』で取り上げられた中心は、田久保氏が落選後に取材対応をしなかった件だ。 報道では、投票後に取材に応じることを約束していたが、落選が判明した後、報道陣を指定の場所で長時間待たせた末に対応しなかったとされる。 その後、本人は未明にXを更新し、支援者への感謝を述べつつ、取材対応をしなかった理由について 「自宅周辺にマスコミが押し寄せたため」と説明した。
ここで“火が付いた”のは、取材対応をしなかった事実以上に、理由説明が責任転嫁に見えるという受け止めが広がった点だ。 政治家に限らず、謝罪や説明は内容だけでなく、「どう説明したか」「誰に向けて話したか」で印象が大きく変わる。 そしてワイドショーは、その“印象”を増幅させる装置になりやすい。
田久保氏をめぐる「ゴタゴタ」の背景:学歴問題→失職→出直し選挙
今回の空気を理解するには、伊東市政がこの半年ほど揺れてきた前提を外せない。 田久保氏は今年5月の市長選で初当選したが、その後、学歴の記載をめぐる問題が浮上し、市政は混乱。 市議会との対立が深まり、不信任決議、議会解散、市議選を経て、再び不信任決議が可決され、最終的に失職した。 その流れを受けた「出直し市長選」が12月14日に投開票され、田久保氏は再選を目指したものの落選した。
つまり視聴者の中には、 「またこの話か」「伊東市の混乱が長すぎる」「政治が止まっている」 という疲労感を抱える層が確実にいる。 その疲労感が、ワイドショーでのコメントを「痛快」と感じさせる方向にも働く。 しかし同時に、疲労感が溜まっている話題ほど、番組側が“雑に笑いへ回収”すると反発も起きる。 ここが今回の難しさだ。
『ゴゴスマ』で何が問題視された?「批判」ではなく“嘲笑”に見えた瞬間
番組では、田久保氏のX投稿の説明に対し、出演者が疑問や批判を呈した。 たとえば「マスコミが来なかったら、どこでコメントするつもりだったのか」といった突っ込みが入り、 その流れでスタジオに笑いが起きたとされる。
さらに、発言のトーンが“政治家への説明責任の追及”から、“人格いじり”の空気に寄ったと受け止められたことが、反発を呼んだ。 問題は、疑問を投げること自体ではない。 疑問の投げ方が「みんなで笑う」方向へ揃ってしまうと、 たとえ内容が正論でも「いじめ」に見える瞬間が生まれてしまう。
とくに視聴者が敏感に反応したのは、 司会者を含めてスタジオ全体が同じ方向へ寄り、笑いを交えながら追い込むような構図に見えた点だろう。 一部では「全員で叩くのが気分が悪い」「しつこい」といった反応も出ており、 “正しさ”が“冷たさ”に変換される現象が起きている。
視聴者が不快になるライン:「叩いていい空気」が一度できると止まらない
ワイドショーの怖さは、一度「叩いていい空気」ができると、番組全体がそこに最適化していくことだ。 司会、コメンテーター、VTR、テロップ、スタジオの笑い。 すべてが同じ方向を向き始めると、視聴者は“空気の圧”を感じ取る。
今回の件が「いじめ」という言葉で表現されたのは、内容がどうこうよりも、 力関係が一方的に見えたからだと思う。 スタジオ側は多数で、発言権もあり、笑いも起こせる。 画面の向こうの当事者は、その場で反論できない。 その非対称性が、ニュースの解説ではなく“見世物”に見えてしまうと、拒否反応が出る。
一方で「批判されても仕方ない」もある:説明責任・約束・振る舞いの問題
ここで重要なのは、田久保氏への批判がすべて不当という話ではないことだ。 選挙後の取材対応を約束していたなら、実施できない理由が生じたとしても、 どう説明するかは政治家として重い。 さらに、伊東市政は学歴問題を発端に混乱し、失職と出直し選挙にまで至った。 それだけ市民側が「説明してほしい」と思う土台は強い。
だからこそ、ワイドショーが担うべきは 怒りの代弁ではなく、論点の整理ではないかという話になる。 「言ってやった!」の快楽は一瞬で終わるが、 視聴者が本当に知りたいのは、何が問題で、何が争点で、次に何が起こるのかだ。 そこが薄いまま“笑い”だけが濃くなると、視聴者は置き去りになる。
ワイドショーの中立性とは:面白さと公共性のせめぎ合い
ワイドショーは、ニュースとエンタメの中間にいる。 だから、視聴者の溜飲を下げる役割があるのは事実だ。 しかし政治の話題では、とくに危うい。 なぜなら、笑いで切ってしまうと、地域の問題が「人物いじり」だけで終わるからだ。
田久保氏個人の言動に批判が集まるのは理解できる。 ただ、伊東市長選は本来、観光、財政、開発、地域の将来といったテーマも抱えるはずだ。 そこが深掘りされず、“叩きやすい人物”だけが消費される構図になると、 それは番組の快楽でしかなく、公共性は置き去りになる。
まとめ:批判は必要、でも「嘲笑」に見えた瞬間に信頼は崩れる
『ゴゴスマ』の一連の進行が「いじめそのもの」と言われたのは、 田久保氏を批判したからではなく、視聴者に“みんなで笑って追い込んでいる”ように映ったからだ。 政治家の説明責任は厳しく問われるべきだが、 その問い方が嘲笑に寄った瞬間、番組への信頼は逆に傷つく。
結局、視聴者が見ているのは「誰が正しいか」だけではない。 その正しさをどう扱うか(品位・手続き・公平さ)だ。 ワイドショーが“中立性”を掲げるなら、怒りや笑いへ流れやすい話題ほど、 反対側の視点を置き、言葉の温度を管理し、論点を整理する必要がある。 今回の物議は、その当たり前が揺らいだ瞬間を、視聴者が見逃さなかったということなのかもしれない。
